1月のセッション 6
不幸の源、というものがもしあるとするなら、どんなものでしょうか。
僕が思いつくのは、「こうあるべき!」という固定した考え方が、不幸の源だと思っています。
それはなぜか?
相談をお受けしていると、多くの悩みがこの考え方から発生しているからです。
たとえば、子供としっかり向き合うべき、だと悩むお母さんの相談があります。
我が子は可愛い、だから子供としっかり向き合いたい、
という気持ちはすばらしいと感じます。
ですが、子供と向き合うべき、という義務感が強くなると、注意が必要です。
そこには、たとえ向き合いたくないときでも、常に子供と向き合わなければいけない、
というニュアンスが漂い始めます。
したくないときでも、しなければいけない。
そこにはすでに「~したい」、という素直な気持ちの素晴らしさが失われています。
(意に反した)義務感は人の気持ちを萎えさえ、エネルギーを低下させます。
じゃあ、どう考えたら、楽になれるでしょうか。
子供と向き合いたくないときには、無理にしなくていい。
シンプルにそう考えると、楽になります。
したくないときには、無理にしなくていい。
こう考えると、とても心が楽になるし、エネルギーも軽くなります。
したくないことは、無理にしなくていい。
そんな訳にはいかない、と思うかもしれません。
それは義務なのだ、やらなければいけないのだ、と。
でも、ほんとうの意味での「義務」というものは、人生にはほとんど存在しません。
そのほとんどは「選択」です。僕はそう考えています。
たとえば義務の代表格「仕事」を例に取りましょう。
仕事をしなければいけない。では、しなければどうなるのか?
仕事をしないという選択もあります。その結果、職を失うことになるかもしれません。
でも、その職を選択したのは誰か。自分です。
自分で選んだ職であれば、その仕事をするのも自分の選択。義務ではありません。
この職を続けてゆくなら、仕事をする。
あれがほしいなら、これをする必要がある。そういう選択の「セット」なのですね。
もし本当に嫌なら、辞めるという選択はいつでも可能です。
その職を続けてゆくなら、仕事をする。
仕事が嫌なら、その職を辞める。
どちらも選択できます。
ここでお伝えしたいのは、「義務」だと考えると苦しくなるけれど「選択」と考えることで楽になる、ということ。
こんな嫌な仕事をガマンしなくちゃいけない、と思うと死にたくなる。
でも、
待てよ、そもそも自分で選んだんだから、死ぬほど無理する必要はないんだ、
と気づくと冷静になれます。
この仕事に、命をかけるほどの価値があるのか?答えは明らかですね。
人生はは選択(とその結果)の繰り返しともいえます。
山頂に立ちたいなら、汗をかき、息を切らせて登らなければいけない。
でも、登るという苦労が嫌なら、いつでも引き返せる。
引き返せば、楽しいことが他にも待っている。
でもやっぱり、ここまで登ったんだから、もうちょっと頑張ってみようかな。
そう思えた瞬間、「義務」ではなく、自分自身の「選択」になります。
嫌だなー、と思ったら、
「嫌なら、やめたら~?」
と自分に問いかけてみる。
そうか、やめるのもアリか、と思えた瞬間、心が少し楽になっているはずです。
葵優太
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